senjinnomeiyoの日記

捻じ曲げられた真実を解き放し先人の名誉を護りましょう。

北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?

北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?〜第1項〜

 

私は産まれも育ちも北海道旭川市です。

北海道が開基150年を越え、今更ながらにこの大地を切り拓いてきた先人と今を生きる我々を守られた御英霊に感謝し未来への架け橋となれる努力をせねばならないとつくづく思う年代となったわけです。

 

常日頃、私はある疑問を持っておりその「検証」をすべく資料を集め「佐賀県立図書館 様」、「茨城歴史館 様」、そして郷土史、社史の研究をされてる「海堂拓己 氏」に協力を仰ぎ、ご享受頂き動き出すことになりました。

先般の北海道開基150年の際に『北海道の命名者』として注目を浴びたのが伊勢国(現 三重県)出身の『松浦武四郎』である。

北海道庁三重県松阪市松浦武四郎記念館のホームページには以下の様に記されている。

時代が明治にかわり、武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼されました。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられます。

「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味です。

「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称でした。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としました。

武四郎はほかにも国名、郡名についての上申書も提出しており、その意見が取り上げられます。その土地の名前も、武四郎が蝦夷地を調査しているときにアイヌ民族の人々から教えてもらった土地名が由来となっています。(一部記載)

 

これらは一般的に「北海道命名の由来である。」とされています。

これらの文章を読んでいくうちに物凄く違和感を覚えました。

私には「理に適ってない」と感じたのです。

 

それで、『北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?』をテーマに検証し、調べていく事にしました。

 

もし、これが「意図的な間違いであるならば」捏造と言う事になりますし、何をどう調べこうなったかを検証しなければならないと感じたのが私の頭の中にありました。

 

文献に初めて『蝦夷地』が出て来たのはいつだったのか?

ご存知の方も多いとは思いますが「日本書紀」です。

 

蝦夷征討・粛慎討伐 編集
斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、30年ほど前には一部の事象のみを史実とする著書もあった。また、渡島をはじめ、日本書記に書かれている地名を元に明治期に制定された地名があるため、同定には慎重な判断を要する。
 
斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに、饗応を受けた。
同年、比羅夫は粛慎(みしはせ)を平らげ、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する。粛慎(みしはせ)の出自については諸説ある。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。
斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は北海道の尻別川流域と比定し、同地を後志国(しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けた。
この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう。
斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考える説がある)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎の本拠地を樺太や、奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した。

 

wikipediaにあります。

地理的、時代背景から言っても「作り話」としては理に適う内容ですので

史実に基づくものと思われます。

 

この時代は本州で言えば飛鳥時代です。

北海道では続縄文時代になります。

 

後方羊蹄に政所とし、郡領を置いているのですから当然書簡での朝廷とのやり取りは有った訳ですし、大和朝廷の配下に従属しているのがわかる訳です。

この後日本の歴史に出てくるのは江戸前期になるわけですが、北海道の歴史とは違っています。

なぜなら、北海道はこの後、擦文文化時代、道東ではオホーツク文化期(トビニタイ文化)になるからです。

 

北海道からはこれらの時代の遺跡が発見されています。

たとえば、擦文時代の遺跡である錦町5遺跡から鉄、蕨手刀が出土してますし、恵庭の有形文化財に擦文前期の蓋付きの須恵器が登録されてますし、北大恵迪寮の建設現場からは刻書土器も出土してます。

道央部では古墳から奈良時代の方頭大刀が出土し、この大刀を調べると朝廷で使用されてた直刀だという事もわかってます。

見つかり調査された遺跡らは日本人との関わりがあるものばかりなのです。

 

では、江戸時代に目を向けて見ましょう。

 

水戸藩2代藩主と言えばもう有名な『徳川光圀』です。

光圀公は、寛文元年(1661)から元禄3年(1690)までの間水戸藩2代藩主を務めました。

 

水戸藩はいち早く北方域に関心をもち蝦夷地について調べる事となります。

因みに、シャクシャインの乱が寛文9年(1669)とされております。

寛文蝦夷蜂起とも呼ばれました。

蝦夷にこの様な旗本も絡む戦いがあったのですから関心を寄せるのは当然でしょう。

光圀公は水戸徳川家で造船した「快風丸」で蝦夷地の探検を「崎山市内(さきやまいちない)」に命じ65人の水夫と共に3年分の食糧を積み元禄元年2月に那珂湊を出発、松前を経由し、石狩に6月21日に到着。

蝦夷の様子を「水戸藩士 豊田亮(とよだたすく)」が「北島志、快風丸蝦夷聞書」等に記している。

 

水戸藩には「北方防衛」の大事さを伝えて行くことになります。

 

                       

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阿倍比羅夫


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