北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?
〜北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか? 第2項〜
足利や源が蝦夷に対しどうこうしようかと記録はあるか?と調べると…
ありました。
鎌倉時代に蝦夷関連の諸職を統括したと推定されている役職である。
蝦夷管領の語は南北朝時代以降に見える名称であり、鎌倉時代には蝦夷沙汰職(えぞさたしき)、蝦夷代官(えぞだいかん)と呼ばれました。
鎌倉幕府草創期より蝦夷地は重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷管領は流人達の送致、監視が主な役目といわれている。
また、蝦夷との交易にも関与していたと推定されている。
建保5年(1217年)、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤堯秀を蝦夷管領に任命したのがはじまりといわれているが、安藤氏の系図には異伝が多く詳しいことは分かっていない。
この職は安藤氏の世職で、政務を行う役所・営所は津軽の十三湊にあったという。 しかし、諸史料によると安藤氏は北条得宗家の代官として配置されたとなっているため、実際には得宗家のための役職であって、北条家の委託を受けた安藤氏が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納していたと推定されている。
鎌倉幕府滅亡後、安藤氏は安東氏と姓の表記を変え、「東海将軍」「日の本将軍」を名乗り蝦夷管領家の権威権限を実際に行使するかたちで蝦夷地を統治していたことが分かっているが、この安東氏とはまた別に安藤氏の子孫を名乗る家系もあり、その詳細は今後の研究に委ねられている。
とWikipediaに掲載されてます。
安東氏の記録については「どれが真実」かは未だに論議があるそうで確かではありませんが、鎌倉幕府の記録は朝廷にも残りました。
室町時代はどうでしょう?
ここで蝦夷地とは北海道、千島、樺太の総称になり、安東氏の滅亡後、コシャマインの乱を治めた武田信広の子孫である蠣崎慶広が豊臣秀吉より『朱印状』を与えられ蝦夷交易独占権を得る。
田畑が無い為、海産物、狩猟物を献上するわけです。
ここらの時代ではまだ外国による北防観念があまりありません。
ですがその後、外国も日本の存在を意識していくのです。
極東の島国日本は近隣に大国ロシアの存在を意識し、考える事になっていきます。
徳川幕府と蝦夷地
蠣崎慶広
慶長3(1598)年8月、天下人秀吉が没し、実質的な権力を握っていた徳川家康は翌年9月、大阪西の丸において蠣崎慶広が家康に拝謁、累代の系譜および蝦夷地図を呈上したのは、その年の11月でした。
このとき慶広は従来の蠣崎から松前に氏を改めました。
豊臣秀吉亡き後の権力闘争の一応の決着は、慶長5年9月の天下分け目の関ヶ原の戦いでつきました。
同8年2月家康は征夷大将軍に補され、江戸に幕府を開き、慶長9年(1604)1月、慶広は、家康から『黒印状』の交付を受けました。
内容は、
① 松前へ出入りするものは松前氏の許可なくアイヌとの商売をできないこと ② 松前氏の許可なく蝦夷地に渡り商売をできないこと。ただし、アイヌについては、どこへ行くのも自由であること、③ アイヌに対する非分を堅く禁止させること。
の三つを柱とするお墨付きでした。
秀吉の『朱印状』が船役徴収だけを認めたものだったのに対し、家康の『黒印状』は松前地における交易全般に対して松前藩の流通統制権を保証しており、松前氏にとって大きく前進した内容になっています。
もう一つ注目されるのは、和人の渡海を厳しく規制しているのに対し、アイヌの行動の自由を「夷(えぞ)次第」として保証している点です。
同年5月、慶広は従5位下・伊豆守に任ぜられました。
こうして松前氏は、幕藩制下において大名に準ずる地位を確立し黒印状を拠り所に蝦夷地の支配を固めていったのでした。
蝦夷地(松前藩領)の統治は松前氏に一任される訳ですがある男の誕生により「日本の中の蝦夷地の様子」が幕府内にも知れる様になっていくのです。
徳川光圀と蝦夷地
徳川光圀
中納言『水戸の御老公様』でお馴染みの「徳川光圀」寛永5年~元禄13年 (1628年~1700年)
水戸藩第2代藩主。寛文元年(1661年)
に水戸藩主となって以来、殉死の禁止、笠原水道の開設、貧民の救済と産業の振興などの善政を行い、藩内外から名君と仰がれました。
また朝廷を尊び幕府を助けるとともに、巨船快風丸による蝦夷地探検など藩政を越えた事業も手がけました。
特に、中国の「史記」にならって〘水戸学〙を起こし、水戸学の知見から日本の歴史を編さんしようと決意し、全国から優れた学者を招き自ら監修にあたった「大日本史」は、水戸藩ばかりでなく近世日本の文化に大きな影響を与えました。1690年(元禄3年)藩主を譲り西山荘(常陸太田市)に隠居し、73歳で没しました。諡号は義公。
中納言の唐名から、「水戸黄門」の名で現在でも親しまれてますが、光圀は先にも示した通り蝦夷探検を行ってます。
1度目は船の造りが思わしくなく廃船、2度目は時化を圧して出航、行方不明になり、3度目に元禄元年2月、崎山市内(さきやま いちない)を船長に65人の水夫が乗り込み、3年分の食糧を積み、那珂湊を出発「快風丸」で蝦夷探検を、そしてイシカリにまで到達し、40日間の滞在の中で水戸藩豊田亮(とよだたすく)が書いた「北島志」や、「快風丸蝦夷聞書」など記している。
例えば…
• 集まってきた940人ほどのアイヌに酒を振舞った。
• たくさんの鮭が川をのぼり船の櫓にあたるほどであった。
• 生鮭100本を米1斗2升と交換した。
• アイヌは川端に住み、両岸は木が茂って往来できず船で行き来している。
• アイヌの村には一人づつ大将がいて、石狩川流域の惣大将はカルヘカという人物。
• 干鮭(からさけ)を細かく切り湯煮して鮫の油をかけて指で食べ、生鮭は氷頭の部分を食べる。
• 熊笹でふいた家は水生植物を編んで囲っている。
• 口を1か所開けて出入りし、夜は親子兄弟一所に寝ている。
• 家の中の地面にいろりを掘り、木をくべてあたっている。
• 船が難破漂着してこの地に留まり、アイヌ人を妻として居住する和人が十数人いる。
• シャクシャインとの戦いのあと、松前藩はアイヌから刃物や武器を残らず取り上げた。
等々を記録しています。
これらの記録は光圀公のみならず、蝦夷地を『水戸藩』は全国の藩主を巻き込み〘北方防衛の柵地〙と考えて行く事になります。
第3項へつづく