北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?
北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?
〜第3項〜
更新時期が少々空いています。
確認しながら更新してますのでご了承を。
前回は「天下の副将軍 水戸の御老公様」と名高い 『義公 徳川光圀』をお話ししました。
その後も水戸藩は北方防衛に対しての知識を蓄えていきます。
江戸幕府初期からも外国船の往来が見受けられロシアの存在を確認しています。
水戸藩は光圀公の指示により多くの北方防衛に関する研究者を輩出する事となる。
最上徳内、木村謙次、近藤重蔵、立原翠軒、藤田東湖等は今でも名が残る所であろう。
『木村謙次』は常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだ他に農政学にも通じていた。
寛政5年(1793年) 水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げたほか、江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆。
寛政10年(1798年)、近藤重蔵の蝦夷地探検に「医師・下野源助」として同行し、旅の様子を『蝦夷日記』にしたためる。択捉島タンネモイに建てられた木標「大日本恵登呂府」の文字は木村が書いたといわれ、そのほか近藤の書と伝えられる物の中にも、実は木村の手になる物が少なくないとされるのだ。
しかも、木村の死後である明治40年(1907年)に正五位を追贈されたのだ。
明治維新後も木村謙次がどれだけの偉業を成していたかがわかる。
水戸学はその後も引き継がれる。
寛政12年(1800年)3月11日、後の水戸藩第九代藩主にしてその言動の激しさから『烈公』と呼ばれた人物が産声を挙げた。
徳川斉昭である。
徳川斉昭公については次項にお話しする事になる。
徳川斉昭の偉業は徳川幕府の北方防衛黎明期から明治期、大正期、満洲国建国、占守島防衛にまで関わることであり、現日本国の北方防衛に足りてない部分を適切に表しているからだ。
〜第4項に続く〜
北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?
〜北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか? 第2項〜
足利や源が蝦夷に対しどうこうしようかと記録はあるか?と調べると…
ありました。
鎌倉時代に蝦夷関連の諸職を統括したと推定されている役職である。
蝦夷管領の語は南北朝時代以降に見える名称であり、鎌倉時代には蝦夷沙汰職(えぞさたしき)、蝦夷代官(えぞだいかん)と呼ばれました。
鎌倉幕府草創期より蝦夷地は重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷管領は流人達の送致、監視が主な役目といわれている。
また、蝦夷との交易にも関与していたと推定されている。
建保5年(1217年)、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤堯秀を蝦夷管領に任命したのがはじまりといわれているが、安藤氏の系図には異伝が多く詳しいことは分かっていない。
この職は安藤氏の世職で、政務を行う役所・営所は津軽の十三湊にあったという。 しかし、諸史料によると安藤氏は北条得宗家の代官として配置されたとなっているため、実際には得宗家のための役職であって、北条家の委託を受けた安藤氏が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納していたと推定されている。
鎌倉幕府滅亡後、安藤氏は安東氏と姓の表記を変え、「東海将軍」「日の本将軍」を名乗り蝦夷管領家の権威権限を実際に行使するかたちで蝦夷地を統治していたことが分かっているが、この安東氏とはまた別に安藤氏の子孫を名乗る家系もあり、その詳細は今後の研究に委ねられている。
とWikipediaに掲載されてます。
安東氏の記録については「どれが真実」かは未だに論議があるそうで確かではありませんが、鎌倉幕府の記録は朝廷にも残りました。
室町時代はどうでしょう?
ここで蝦夷地とは北海道、千島、樺太の総称になり、安東氏の滅亡後、コシャマインの乱を治めた武田信広の子孫である蠣崎慶広が豊臣秀吉より『朱印状』を与えられ蝦夷交易独占権を得る。
田畑が無い為、海産物、狩猟物を献上するわけです。
ここらの時代ではまだ外国による北防観念があまりありません。
ですがその後、外国も日本の存在を意識していくのです。
極東の島国日本は近隣に大国ロシアの存在を意識し、考える事になっていきます。
徳川幕府と蝦夷地
蠣崎慶広
慶長3(1598)年8月、天下人秀吉が没し、実質的な権力を握っていた徳川家康は翌年9月、大阪西の丸において蠣崎慶広が家康に拝謁、累代の系譜および蝦夷地図を呈上したのは、その年の11月でした。
このとき慶広は従来の蠣崎から松前に氏を改めました。
豊臣秀吉亡き後の権力闘争の一応の決着は、慶長5年9月の天下分け目の関ヶ原の戦いでつきました。
同8年2月家康は征夷大将軍に補され、江戸に幕府を開き、慶長9年(1604)1月、慶広は、家康から『黒印状』の交付を受けました。
内容は、
① 松前へ出入りするものは松前氏の許可なくアイヌとの商売をできないこと ② 松前氏の許可なく蝦夷地に渡り商売をできないこと。ただし、アイヌについては、どこへ行くのも自由であること、③ アイヌに対する非分を堅く禁止させること。
の三つを柱とするお墨付きでした。
秀吉の『朱印状』が船役徴収だけを認めたものだったのに対し、家康の『黒印状』は松前地における交易全般に対して松前藩の流通統制権を保証しており、松前氏にとって大きく前進した内容になっています。
もう一つ注目されるのは、和人の渡海を厳しく規制しているのに対し、アイヌの行動の自由を「夷(えぞ)次第」として保証している点です。
同年5月、慶広は従5位下・伊豆守に任ぜられました。
こうして松前氏は、幕藩制下において大名に準ずる地位を確立し黒印状を拠り所に蝦夷地の支配を固めていったのでした。
蝦夷地(松前藩領)の統治は松前氏に一任される訳ですがある男の誕生により「日本の中の蝦夷地の様子」が幕府内にも知れる様になっていくのです。
徳川光圀と蝦夷地
徳川光圀
中納言『水戸の御老公様』でお馴染みの「徳川光圀」寛永5年~元禄13年 (1628年~1700年)
水戸藩第2代藩主。寛文元年(1661年)
に水戸藩主となって以来、殉死の禁止、笠原水道の開設、貧民の救済と産業の振興などの善政を行い、藩内外から名君と仰がれました。
また朝廷を尊び幕府を助けるとともに、巨船快風丸による蝦夷地探検など藩政を越えた事業も手がけました。
特に、中国の「史記」にならって〘水戸学〙を起こし、水戸学の知見から日本の歴史を編さんしようと決意し、全国から優れた学者を招き自ら監修にあたった「大日本史」は、水戸藩ばかりでなく近世日本の文化に大きな影響を与えました。1690年(元禄3年)藩主を譲り西山荘(常陸太田市)に隠居し、73歳で没しました。諡号は義公。
中納言の唐名から、「水戸黄門」の名で現在でも親しまれてますが、光圀は先にも示した通り蝦夷探検を行ってます。
1度目は船の造りが思わしくなく廃船、2度目は時化を圧して出航、行方不明になり、3度目に元禄元年2月、崎山市内(さきやま いちない)を船長に65人の水夫が乗り込み、3年分の食糧を積み、那珂湊を出発「快風丸」で蝦夷探検を、そしてイシカリにまで到達し、40日間の滞在の中で水戸藩豊田亮(とよだたすく)が書いた「北島志」や、「快風丸蝦夷聞書」など記している。
例えば…
• 集まってきた940人ほどのアイヌに酒を振舞った。
• たくさんの鮭が川をのぼり船の櫓にあたるほどであった。
• 生鮭100本を米1斗2升と交換した。
• アイヌは川端に住み、両岸は木が茂って往来できず船で行き来している。
• アイヌの村には一人づつ大将がいて、石狩川流域の惣大将はカルヘカという人物。
• 干鮭(からさけ)を細かく切り湯煮して鮫の油をかけて指で食べ、生鮭は氷頭の部分を食べる。
• 熊笹でふいた家は水生植物を編んで囲っている。
• 口を1か所開けて出入りし、夜は親子兄弟一所に寝ている。
• 家の中の地面にいろりを掘り、木をくべてあたっている。
• 船が難破漂着してこの地に留まり、アイヌ人を妻として居住する和人が十数人いる。
• シャクシャインとの戦いのあと、松前藩はアイヌから刃物や武器を残らず取り上げた。
等々を記録しています。
これらの記録は光圀公のみならず、蝦夷地を『水戸藩』は全国の藩主を巻き込み〘北方防衛の柵地〙と考えて行く事になります。
第3項へつづく
北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?
北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?〜第1項〜
私は産まれも育ちも北海道旭川市です。
北海道が開基150年を越え、今更ながらにこの大地を切り拓いてきた先人と今を生きる我々を守られた御英霊に感謝し未来への架け橋となれる努力をせねばならないとつくづく思う年代となったわけです。
常日頃、私はある疑問を持っておりその「検証」をすべく資料を集め「佐賀県立図書館 様」、「茨城歴史館 様」、そして郷土史、社史の研究をされてる「海堂拓己 氏」に協力を仰ぎ、ご享受頂き動き出すことになりました。
先般の北海道開基150年の際に『北海道の命名者』として注目を浴びたのが伊勢国(現 三重県)出身の『松浦武四郎』である。
北海道庁や三重県松阪市松浦武四郎記念館のホームページには以下の様に記されている。
時代が明治にかわり、武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼されました。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられます。
「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味です。
「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称でした。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としました。
武四郎はほかにも国名、郡名についての上申書も提出しており、その意見が取り上げられます。その土地の名前も、武四郎が蝦夷地を調査しているときにアイヌ民族の人々から教えてもらった土地名が由来となっています。(一部記載)
これらは一般的に「北海道命名の由来である。」とされています。
これらの文章を読んでいくうちに物凄く違和感を覚えました。
私には「理に適ってない」と感じたのです。
それで、『北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?』をテーマに検証し、調べていく事にしました。
もし、これが「意図的な間違いであるならば」捏造と言う事になりますし、何をどう調べこうなったかを検証しなければならないと感じたのが私の頭の中にありました。
文献に初めて『蝦夷地』が出て来たのはいつだったのか?
ご存知の方も多いとは思いますが「日本書紀」です。
蝦夷征討・粛慎討伐 編集
斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、30年ほど前には一部の事象のみを史実とする著書もあった。また、渡島をはじめ、日本書記に書かれている地名を元に明治期に制定された地名があるため、同定には慎重な判断を要する。
斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに、饗応を受けた。
同年、比羅夫は粛慎(みしはせ)を平らげ、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する。粛慎(みしはせ)の出自については諸説ある。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。
斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は北海道の尻別川流域と比定し、同地を後志国(しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けた。
この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう。
斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考える説がある)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎の本拠地を樺太や、奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した。
とwikipediaにあります。
地理的、時代背景から言っても「作り話」としては理に適う内容ですので
史実に基づくものと思われます。
この時代は本州で言えば飛鳥時代です。
北海道では続縄文時代になります。
後方羊蹄に政所とし、郡領を置いているのですから当然書簡での朝廷とのやり取りは有った訳ですし、大和朝廷の配下に従属しているのがわかる訳です。
この後日本の歴史に出てくるのは江戸前期になるわけですが、北海道の歴史とは違っています。
なぜなら、北海道はこの後、擦文文化時代、道東ではオホーツク文化期(トビニタイ文化)になるからです。
北海道からはこれらの時代の遺跡が発見されています。
たとえば、擦文時代の遺跡である錦町5遺跡から鉄、蕨手刀が出土してますし、恵庭の有形文化財に擦文前期の蓋付きの須恵器が登録されてますし、北大恵迪寮の建設現場からは刻書土器も出土してます。
道央部では古墳から奈良時代の方頭大刀が出土し、この大刀を調べると朝廷で使用されてた直刀だという事もわかってます。
見つかり調査された遺跡らは日本人との関わりがあるものばかりなのです。
では、江戸時代に目を向けて見ましょう。
光圀公は、寛文元年(1661)から元禄3年(1690)までの間水戸藩2代藩主を務めました。
水戸藩はいち早く北方域に関心をもち蝦夷地について調べる事となります。
因みに、シャクシャインの乱が寛文9年(1669)とされております。
寛文蝦夷蜂起とも呼ばれました。
蝦夷にこの様な旗本も絡む戦いがあったのですから関心を寄せるのは当然でしょう。
光圀公は水戸徳川家で造船した「快風丸」で蝦夷地の探検を「崎山市内(さきやまいちない)」に命じ65人の水夫と共に3年分の食糧を積み元禄元年2月に那珂湊を出発、松前を経由し、石狩に6月21日に到着。
蝦夷の様子を「水戸藩士 豊田亮(とよだたすく)」が「北島志、快風丸蝦夷聞書」等に記している。
水戸藩には「北方防衛」の大事さを伝えて行くことになります。
次号につづく