senjinnomeiyoの日記

捻じ曲げられた真実を解き放し先人の名誉を護りましょう。

北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?

北海道の名付け親は本当に松浦武四郎なのか?

〜第3項〜

 

更新時期が少々空いています。

確認しながら更新してますのでご了承を。

 

前回は「天下の副将軍 水戸の御老公様」と名高い 『義公 徳川光圀』をお話ししました。

 

その後も水戸藩は北方防衛に対しての知識を蓄えていきます。

江戸幕府初期からも外国船の往来が見受けられロシアの存在を確認しています。

 

水戸藩は光圀公の指示により多くの北方防衛に関する研究者を輩出する事となる。

 

最上徳内、木村謙次、近藤重蔵、立原翠軒、藤田東湖等は今でも名が残る所であろう。


f:id:senjinnomeiyo:20210915090933j:image最上徳内


f:id:senjinnomeiyo:20210915091140j:image藤田東湖

 

『木村謙次』は常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだ他に農政学にも通じていた。

寛政5年(1793年) 水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げたほか、江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆。

寛政10年(1798年)、近藤重蔵蝦夷地探検に「医師・下野源助」として同行し、旅の様子を『蝦夷日記』にしたためる。択捉島タンネモイに建てられた木標「大日本恵登呂府」の文字は木村が書いたといわれ、そのほか近藤の書と伝えられる物の中にも、実は木村の手になる物が少なくないとされるのだ。

しかも、木村の死後である明治40年(1907年)に正五位を追贈されたのだ。

 

明治維新後も木村謙次がどれだけの偉業を成していたかがわかる。


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木村謙次『北行日録』<松前奥地図/松前分間絵図>

 

水戸学はその後も引き継がれる。

 

寛政12年(1800年)3月11日、後の水戸藩第九代藩主にしてその言動の激しさから『烈公』と呼ばれた人物が産声を挙げた。

 

徳川斉昭である。


f:id:senjinnomeiyo:20210915090119j:image徳川斉昭

 

徳川斉昭公については次項にお話しする事になる。

 

徳川斉昭の偉業は徳川幕府の北方防衛黎明期から明治期、大正期、満洲国建国、占守島防衛にまで関わることであり、現日本国の北方防衛に足りてない部分を適切に表しているからだ。

 

〜第4項に続く〜